「真我」と「佐藤康行の真我」は0か100の違いなのだと思う。
世の中の宗教やスピリチュアル、そして真我を説く人は数えきれない。
しかし、どれもが似て非なるもの。
先日、学長が真理をダイヤモンドに喩えて説明されていた。
『もしも数百個いや1000以上のダイヤモンドとそっくりのイミテーションが目の前に並べてあったとする。
その中の本物のダイヤモンドはたった一個だけ。
見分けがつかない。
その中から一個だけあげると言われたらどうですか?
そして、それを選ぶのは一発勝負。
もしかしたら、一億円のダイヤモンドかもしれないが、自分では見分けがつかない。
自分は見る目がないとしたら。
自分に見る目があり、これが一億円のダイヤモンドだと分かれば迷わない。人がなんと言おうが、自分は見えるとしたら。
みる目がないと、他の人から「これが良いよ、あれが良いよ」といわれると、ますます迷う。
わからない。そうかな?そうかな?って迷う。
たった一個しか選べないとしたら、ますます迷う。
様々な宗教はじめ良い教えのようなものがあるが、その全体的な量や大きさ、歴史は真理に全く関係ない。
また、他のものが間違ってるとかと言う必要もない。
なぜなら真理の前では、そうでないものは崩壊していくから。』
その凄い話を聞きながら、たった一つのダイヤモンド=「佐藤康行の真我」に出会えた奇跡に感謝でいっぱいになった。
そして、無数の本物そっくりのイミテーションのダイヤと、たった一つの1億円のダイヤモンドを見分けられる学長は唯一の鑑定士であり、本物のダイヤモンドそのものなのだと思った。