学長(佐藤康行先生):間も無く、正月が近くなってきましたね。正月が近くなったら、クリスマスも間も無くで、クリスマスはキリスト教、正月は日本神道。みな神ですね。
ほとんど例外なくどちらか祝います。
しかし本当に神という存在を分かっているのだろうか。
厄払いとか因縁切りという言葉を使いますが、本当にあれで厄払いになって因縁切りになっているのだろうか。
手を合わせて「お願いします。お願いします」と。何をお願いしているのか。
賽銭箱にチャリンと入れてお願いしますと。何をお願いしているのか。
本当にその願いが叶うのか。何か欲しくてお願いするのか。
厄払いだったら、病気にならないように、長生きするように、家族に問題が起きないようにとかということに手を合わせます。
この科学がすごい進化しているはずの時代に、科学、医療あらゆるものが進化して、しかし、人類は進化してるのか。
スマホで世界中の人と会話ができます。
AIはすごいです。
その時代に、一番大事なことが解決しているのか。
戦争を止められるのか。伝染病を止められるのか。精神疾患は日本だけで2000万人いるといわれている。引きこもりは150万人いると言われている。
それを改善できるのかどうか。
真我を追求している皆さんが、そこに疑問符を持つことは良いことだと思います。
仏教では生老病死というのを解決しようとします。
生、生きること。生きることも苦しみに入っている。
老、老いること。生きていくのにたった1秒も老いる事を止めることはできません。
どんだけ科学が進化しても、1秒も老いる事を止めることはできません。
病気、病院だらけです。
病気をした事がない人は聞いた事がありません。
もっとパーフェクトなのは、死です。
100%死ななきゃいけません。どんなに頑張っても、どんなに金があろうと、どんなに出世しようと、どんなに力があろうと、江戸時代、鎌倉時代、縄文時代、奈良時代、全員いないです。
ただの一人も残ってないです。
パーフェクトに死ななければいけない。
私たちが生きてきて、自分の考えで物事をやっている。
しかし。自分の考えでない何かに動かされている。というのを感じることはあると思います。
明らかに自分の思いが実現しただけではない、何かに動かされているようにやらされているように、それを字にすると「因縁」と言います。
思い出すと、すごい確率で両親から何かを背負わされて今がある。また背負わして今の子供達がいる。
因果の因は原因の因ともいいます。別名、たねとも読ます。チューリップの種はチューリップになる設計図があります。
因縁というのは良かれ悪かれ、何かを背負っている。この「因」、種の方に全て根本的な原因がある。
しかし、それは環境的なものがなければ、それは咲かないで終わっちゃう可能性があります。
環境に出会って、それが咲いて。良い方にも悪い方にも。
個人個人の因縁もあるけど、集団の因縁もある。その会社という集団の因縁もある。
全部何かを背負っている。ちゃんと答えが出てきている。
あなた達のやってきたことはこういうことだよって。
でもそれは見えません。見えないから手のつけようがありません。でも病院に行っても分からない世界です。病院は癌がMRIに写ったら癌だなと。でももっと前がある。
もしかしたら、それが現れてからでは遅いかもしれない。
その前に手を打っていく。
神社にいく人は何千万人といます。でも本当にそれで解決するのか。厄払いになるのか。
因縁を帳消しにすることができるのかということです。
神社に行くと、真ん中に鏡があります。
鏡に自分の顔を写す。それが自分の顔。まさに過去の心をいうものを背負ってきた顔つきになる。
その顔=性格。性格通りの人生になる。
だから神はあなたですよって言っている。見るのは肉体の自分しか見えません。
もし私がいつも言っているように、その鏡に自分が神である、その神という姿が鏡に映ったら、その顔は変わる。
顔を変わるだけでなく、性格が変わる。人間性が変わる。そして未来が変わる。そういうことです。
私はそれを30年以上、それも命をかけて、人生を全てかけてやりました。
これより大切なことはないと。医者も弁護士も政治家も、ビジネスマンも、全ての人が真我を学ばなければいけない。悟らなければいけない。
そういう時代が来ている思っているのです。
真我で解決できない問題はないという結論に達しています。